1. HOME
  2. onologue
  3. diary, random note
  4. 「美しい国、日本」を脅かすのは、政治的無関心か、政治的無関心を喜ぶ保守政治か、それとも
diary, random note

「美しい国、日本」を脅かすのは、政治的無関心か、政治的無関心を喜ぶ保守政治か、それとも

少しずつ、よくなる社会に・・・

6月11日付フィナンシャル・タイムズ掲載のアジア・ビジネス・エディター、レオ・ルイス氏の投稿記事の日本語訳が、今日7月15日日経に転掲載されていた。
確か、同紙は日経が買収し、その傘下にある世界的にも名が通った英国の経済紙である。(なぜか英国内よりも海外での発行部数の方が多いという。)

安部元首相の銃撃殺人事件に対するさまざまな報道・記事・情報は、当然ながら今なお続いており、今秋国葬が行われることが昨日発表された。
それも死亡が発表された時点ですぐに想起されたことで、特段、違和感も反対する考えも私にはないが、ああこれも政局にプラスに働くよう自民党ならば絶対に考えること、という発想に至るのもごくごく自然なことと思う。
但し、国葬には明確に反対の立場ではある。

⇒ (FINANCIAL TIMES)「平和な日本」を襲った凶弾  アジア・ビジネス・エディター レオ・ルイス :日本経済新聞 (nikkei.com)

ところで、そのレオ・ルイス氏の記事、少しばかり興味深い視点で書かれていたので、ポイントを借りてお伝えしたい。

「美しい国、日本」と安部元首相

同氏は、数ヶ月前、桜の花が咲き誇る代々木公園をかの母親と連れ立って散歩してした安部元首相の会ったという。
少しばかり象徴的な書き出しの懐古的かつ回顧的文である。(「起」)

「美しい国、日本」というスローガンを掲げて政治活動を展開してきた大物政治家は、この公園で2つの異なる日本の美しさ、すなわち、満開の桜と要人が気軽に散歩ができるという文明的な美しさを享受していた。

とまずその光景と背景を描いている。
日本で最も顔が知られており最も世論を二分する政治家が、見渡す限りでは警護をつけずに散歩していた、と付け加えつつ、このシーンを筆者はまたこう例える。

安倍氏は「パクス・ジャポニカ(日本による平和)」とも呼べる、不思議かつ見て触ることができない結界のようなもので守られていたのだ。
この結界のようなものは何十年にもわたって確立された日本社会の安定がもたらしたことが大きい。


なるほど「結界」という表現を用いるか。
見えない、薄くても堅固に、何かを遮り、何かから守る幕、カーテンのようなもの。
一種の幕をまとった空気のようなもの。
平和と安全・・・。

「美しい国、日本」の社会的背景としての、社会的弛緩と政治的無関心


そしてこれを受けて、筆者は、その暗転を描く。(「承」)

だが、それが安倍氏が銃撃されたことで壊滅的に破られてしまった。
日本では、こうした攻撃が起きうることは個人や組織レベル、そして国全体としても想定することができなくなっていた。
容疑者は一瞬にして、日本国民が営々と築き上げてきた心地よい環境を弛緩しきった社会であるかのようにみせてしまった。

決して「壊滅的」とは私は思わないし、今の日本が「心地よい環境」を形成しているとも思えないし、「弛緩しきった社会」ともまた思わないが、言わんとすることは理解できる。
しかし、今回の事件は、つい先日まで長期政権を担い、辣腕と表現するに相応しい外交を展開し、海外にも名を馳せた著名政治家が被害者だったことが最大級の特徴だった。
(かなりスタンドプレイ的であり、とりわけ、ロシアのウクライナ侵攻発生で、プーチン外交の失敗をやり玉に挙げられているが。)

日本でなぜこのような犯行が、蛮行が、と思わせる無差別殺傷事件は、時折発生しており、その多くは、何かに取り憑かれたかのような盲信、何かに追い込まれたかのような思い込みに因を発する。
それはどの時代にも稀ではあるが発生してきたことであるし、人間が潜在的にもつ精神的な不完全さに起因する事犯であると思う。
安部元首相には直接関係がないことを、何かが織りなした糸を手繰っていくことで、思い込み化し、凶行へのシナリオが現実のものとなるに至った、まさに考えられないような事件が、あり得ない弛緩した警護・警備体制の中で起こってしまった。

「当然だが」と筆者は、こう繋ぐ。

この事件によってパクス・ジャポニカは今後も揺るぎない存在感をもって存続できるのかという疑問が湧く。今後もほぼ確実に存続し続けるだろうと筆者は考える。
政治家の警護、デモや選挙などにおける警備も強化されるだろうが「自制を重視する日本社会の傾向が変わることはないはずだ」と。

ここから筆者の視点・焦点が少しずつ変わっていく。

今のパクス・ジャポニカが強固になったのは国民の政治に対する無関心によるところが大きいという考え方がある。
安倍氏ほどの歴史的な重要性やカリスマ性、名声を誇る政治家が人口35万を超える都市で選挙のための街頭演説をしていたにもかかわらず、そこに集まった聴衆はわずか数十人だった。

聞きよう、読みようによっては、随分な皮肉であり、政治的無関心が引き起こしたものとは全く異なるものだ。
しかし、飛躍というか、発想が貧者ともいえるか、起こったことは紛れもない事実、現実だ。

ただ、パクス・ジャポニカを守り続けてきた日本の市民たちと市民の政治への無関心を混同し、市民が政治に無関心であることが社会の安全と同じように重要だと結論づけるのは非常に危険だ。


「非常に危険」とするまでも勿論ないと思うが、「政治に無関心な社会、日本」と見られるのはやむを得ないかもしれない。

盟友麻生副総裁の弔辞と迷言で浮かび上がる「政治的無関心社会、日本」の特性


しかし、筆者は、この視点での問題提起はそこそこに、政治的無関心の矛先を、想定外の方向に向ける。
それは、安部元首相の盟友の一人、麻生自民党副総裁とその発言に対してである。(「転」)

安倍氏死去の数日前7月1日に、首相経験者でもあり、安倍政権下8年間財務相を務めた右寄りで名家出身の大物政治家麻生太郎自民党副総裁が行った講演での以下の発言を引き合いに出したのだ。

「政治に関心を持たなくても生きていけるというのは良い国です。考えなきゃ生きていけない国のほうがよほど問題なんだ。」


麻生氏は昔から失言が多いとされるが、その発言は同氏の思考プロセスを明確に言語化したもので、過去「ヒトラーはだめだが動機は正しかった」とか、終末期医療について「さっさと死ねるようにしてもらわないとかなわない」とか、「女性が子どもを産まないのが日本の大きな問題だ」というような不快きわまりない発言も、筆者はここで紹介している。

それらを思い起こすと、先日ネットで、安倍氏の葬儀の折の麻生氏の「弔辞」の評判が良かったことと意外に結びついてしまう。
同志であり、先輩後輩であり、名門家出身であり、総理経験者でもあった保守大物政治家の二人は、つまるところ本音も建前も同質性を持っている。
自分たちにシンパシーを感じる一団には価値を見出すが、そうでない層には、極力政治には無関心であってほしいという思いを抱いているわけだ。

筆者は、こう不快感を示している。

政治への無関心についての麻生氏の発言は今回の局面に限り本質を突いているのではないかという不愉快な感覚がある。
市民の政治意識に関する麻生氏の発言は、様々な意味で同氏の過去の発言と比べても最も悪質な部類に入る。元首相が銃撃され死亡するという悲劇を経験して国全体が萎縮し、政治扇動と暴力にまみれていた時代が過去のものとなったことにいつにも増して感謝している今はなおさらだ。」


こう言ってもらえるのは嬉しいことだが、実は、今回の事件は、どうしてもロシアのウクライナ侵攻に端を発した、民主主義(的)国家グループと強権・専横主義的国家群との間の危険な状況とも繋げて考えさせ、留意すべきと向けさせる可能性があるのだ。
そうだとすると、自ずと社会の安定・不安定の維持・保持と、政治的無関心との関係での議論・問題提起が、焦点がボケたものになってしまうのだ。

従い、以下の筆者の言も、さほど意味をなさない、焦点から外れたものになってしまうのだ。

そんな時代に一瞬であっても戻りたいと思っている人はいないだろう。
だが、市民の政治への関心が常に低くあり続けることで社会の安定が保たれると決めつけることには重大な危険が潜む。

外からの、故・安倍晋三の政治姿勢の一つの見方と、これからの政治の役割

日本通の一人でもあろう、レオ・ルイス氏の寄稿。
少しばかり興味関心を持ちつつ読み進め、国民の政治的無関心に対する警鐘の記述かと思ったのだが、なぜか日経の体質をも忖度したのかと思わせられるように、故人の政治姿勢と政権政党のこれからの使命の再確認とその実現の必要性を主張するかのように、以下の言で締めくくってしまっている。(「結」)

安倍氏の改革は中途半端に終わったものが多かったが、同氏が提唱した美しい国は2つの理想が礎となっていた。
一つは停滞の嫌悪。
もう一つは、良くも悪くも、国のあり方を形づくる憲法を改正するために、日本の全有権者に情熱を持ってもらうようにしなければならないという信念。
安倍氏の後を継ぐ人たちは、国民の政治離れがさらに進むことを決して望んではならない。

政治的無関心層に政治を超越して危機感を煽る保守と時代状況にどう向かうのか

民主主義の大切さを説く立場からの国民への提言と善意で読み取ることもできるが、最後の締めくくりの言を読む限りでは、安倍元首相への追悼を兼ねた、保守政権政党への注文として読むべき小論なのだろう。
麻生氏を持ち出したのは、その理想を実現するための反面教師としてのことだろうと、思わず忖度してしまうが、現状の保守政権政党が持つ民主主義の有り様を、レオ・ルイス氏が思い抱く、理想としての民主主義とは、全く異なるもの、似て非なるものという認識は、残念ながらない。
それは、なにも同氏にのみ注文をつけるべきということではなく、マスコミにも、野党政治家にも向けるべきものと考えている。
今回の犯行に対して、その多くが、参院選最中の事件であったことも少しは関係するが、「民主主義に抗う犯行・蛮行」とか「民主主義を守るために、こうした暴力・犯行を許すべきではない」という論調・口調にあふれていた。
現状の政権政党による政治が、決して、望ましい民主主義ではなく、多数を力とした、ある意味専横的な民主主義の性質をまとったものであるという認識がないのだ。
「美しい国、日本」がめざす社会は、そうした理想とする民主主義のもとで実現をめざすべきであり、それは、断じて数を頼りとし、いたずらに数を専有することをめざし、活用した故人の、そして現政権政党の政治をなぞるものであってなはらない。
そのとき、政治的無関心層が今よりも広がっていくことが、政治家・政党の質の低下・劣化や格差や貧困問題が改善されることなく徒に時が流れ、先に希望を見いだせない人々が増えていく社会状況に根ざすものであっては、到底いけない。

今回目にした小論は、非常に物足りないものだったが、こうした思いを再確認する機会となったことで由としておきたい。


少しずつ、よくなる社会に・・・

  1. この記事へのコメントはありません。

  1. この記事へのトラックバックはありません。