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1967年のモンテーニュ、点滴6日間体験の2022年

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少しずつ、よくなる社会に・・・

先日、体調を崩し、6日間の絶食と通院点滴を強いられたことと、日経1面の【春秋】欄で引用されていた以下のモンテーニュのことばをむりやり引っ掛けて、以下の駄文を投稿。
「あなたは生きてきたではないか。」絶食4日間経過:一語一会 -1(2021/3/20)

『今日はなにもしなかった』。
とんでもない言いぐさだ。
あなたは生きてきたではないか。
  (岩下志朗氏訳)

中央公論社「世界の名著」第15回配本『モンテーニュ』(昭和47年1967年20日初版)


モンテーニュ(1533-1592)ときたからには、長きにわたって書棚に積ん読のままの「世界の名著」にあった1冊。
その引用文が、どこにあったか確かめてみようかと、何回かの引っ越しと、家の中での書棚の移動を経て一応無事に、なくならずにある同書を取り出してきた。

懐かしや、この第15回配本書は、なんと発刊が昭和47年5月。
その時わたしは高3。
「世界の名著」は定期配本方式で、発行時から書店に予約し、全巻揃えるべく購入していた。
自宅で1年余分に勉強していたのだが、それでも全66巻には届かなかったわけだから、家を出てからもきちんと買い求めていたわけだ。
ボリュームにより価格が異なっていたが、モンテーニュは480円。

この全集の基調の色と装丁が名前は思い出せないが有名な女性デザイナーによる<ボルドーワイン>。
これが好きだった。
本書『モンテーニュ』の訳者は、荒木昭太郎氏。

取り出した書の初めをパラパラめくると、記憶になかったが、何カ所か、ラインマーカーで線を引いている。
しかし、全566頁のボリュームの書の最後のラインマーカーは93頁で、栞紐は94頁に収まっている。
ということは・・・。
その後は積ん読、立て読、引越し時はダンボールに入れ読の人生ならぬ本生。
すべての偉人は、書として生きてきたではないか!

ラインマークしてある頁のある箇所

第20章 哲学すること、それはどのように死ぬかを学ぶことだ (モンテーニュ『エセー』)

そのラインマークした箇所の一つが、この第20章のタイトル「哲学すること、それはどのように死ぬかを学ぶことだ」。
全然記憶にないのだが、私は、「哲学とは、生き方ものであり、そのあり方を考え、実践すること」と自分流に考えている。
そう考えるきっかけになったのが、どうやら、このモンテーニュの『エセー』のここにあったらしい。
なにやらそんな気がする。

しかし、こうした名著を読みつつも、外国の偉人の名著・名言も、翻訳ものでは、本当の意味合いや背景などを理解することはできないだろう。いうならば、翻訳は、「そんなような意味のことを書いているよ」という理解にとどまる。
そして、そうした翻訳から考えられるのは、人間の精神構造、思考方法等は、古今東西、そして歴史に関係なく似ているもの。
そんなことを、その時期によく考えていたことも、うっすら思い起こす。

ということで、折角の名著も、モンテーニュはまだ100頁近く読もうとした痕跡はあるが、他のほとんどは開かずじまい。
しかし、いずれは、という思いをずっと一応は持っていて、(当時求めた「日本の詩歌」や簡易版の「世界の歴史」全集は処分したが、)今も書棚にあるわけだ。
しかし、興味関心順を考えると、今回のようなことで、偶然開いて見る以外になさそうな気がする。

絶食6日目で解放、CRP(C反応性蛋白)大幅改善、WBC(白血球)基準値内に戻る!

さて、モンテーニュとむりやり結びつけた、17日診察「憩室炎」による絶食6日間医師司令の生活。
真面目に、ポカリと野菜ジュースとお茶だけの5日間の断食生活を送り、今日の朝食も抜いて、血液検査、CTの再検査に。
この間、2日目の夕方に少し体の怠さが抜け、3日目の下痢回数増の山を越え、4日目には痛みの大半が消え、昨日には腹の張りがなかなか治まらないのが気にはなりつつも、午後絶食後初めて、空腹感を少しの時間ながら感じ。
ということで、それなりに、検査結果の改善があることはほぼ確信。
あとは、医師の判断がどうなるか。

結果、憩室炎の炎症は、当然CTではほぼ消滅。
血液検査でも、画像のように、CRP(C反応性蛋白C-Reactive Protein)が、99.99が1.75と、基準値にかなり近くに改善。
WBC(白血球 White Blood Cell)は、121から58の基準値内に戻る。


で、絶食はこれで終わり、経過後の状況確認のための外来再診も要らず、で今日で終わり、と神のお告げ。
真面目な絶食生活で、食べなくてもそれなりに生きていけることが確認できたこと、ついでにデトックスもできたことという副次的成果は別として、それなりに日々食事には気を遣っているつもりだったが、やはり気の緩みというか、調子に乗ったときもあったのではと反省。

モンテーニュ『エセー』ラインマーク箇所再確認・拝借で、明日へ

というつまらない日記風ブログの締めとして、せっかくなので、一応読んだ?眼にした?であろう『エセー』に引いた何カ所かのラインマークから、いくつかピックアップして終わりにします。

起きてくる事柄に憤慨してはいけない。
われわれの怒りなど、向こうにはどうでもいいことだ。
(原文フランス語、アミロ訳プルタルコス『倫理論集』「怒りをおさえる方法」四)

そして自分にむかってたえず繰り返している。
「いつか先で起こりうることは、今日にでも起ころりうることだ」と。

今から百年あとにわれわれが生きていないだろうということを嘆くのは、今から百年前にわれわれが生きていなかったということを嘆くに似た愚かな行為だ。
死はもうひとつの生の起源なのだ。

もしきみたちが生から利益を受けたのならば、もう十分それを堪能しているわけだ。
満足して立ち去りたまえ。

生はそれ自体は善でも悪でもない。
それはきみたちのする仕方によって、善の場とも悪の場ともなる。
そして、もしきみたちが一日生きたならば、それですべてを見たことになる。
一日はすべての日と同等だ。
ほかの光も、ほかの夜もありはしない。
この太陽、この月、これらの星々、この配置、これこそきみたちの祖先が享け楽しんだ同じものであり、またきみたちの子孫の相手をつとめる同じものである。

16世紀を生きたモンテーニュも、今を生きるわたしたちも、よく似ている想いを抱き、よく似ている発想で人生を、生を、そして死も考えて、それぞれが、それなりに生きており、生きていくでしょう。

生きていきましょう。

                       少しずつ、よくなる社会に・・・

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