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要:宗教および宗教家、宗教学者に何を期待するか:<コロナ禍の思想>から考える-1

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少しずつ、よくなる社会に・・・

日経が、1月下旬から連載していた<コロナ禍の思想>シリーズの最終回第7回に、宗教学者であり、現在上智大グリーフケア研究所所長を務める島薗進氏の小文が掲載されました。
重いテーマを非常にコンパクトに述べた論述なので、そのままストレートに受け止めるのも適切ではないと思いますが、同氏の考えるところを紹介し、思うところに、宗教について日々考えていることを加えて、メモしてみます。
⇒ 支え合うケア、新たな共助 宗教学者・島薗進氏: 日本経済新聞 (nikkei.com)

苦境にこそ大きな役割を果たすという宗教だが

苦しく困難な日々が長期にわたって続いている。こういう苦境にこそ、宗教は大きな役割を果たさなくてはならない。
2011年の東日本大震災の際は、被災地での追悼集会や支援、人々の心のケアなどキリスト教、仏教など信教を超え、宗教者は積極的に活動した。

「苦境にこそ、宗教は大きな役割を果たすべき」
そういう側面もあるにはあるでしょうが、私には、日常生活に溶け込む、あるいは寄り添う宗教というイメージを抱きます。
「信教を超え」という表現は、微妙ですが、むしろ東日本大震災など大きな厄災時ほど、「宗教を超えた、超越した」なにか、「人間」の根源としての心情的なものが働くのではとも思います。

接触を制約された状況下で問われる宗教の意義・価値

しかし、人と人が接触することで感染が広がるいまの状況では、諸宗派の活動自体がしにくくなった。コロナの流行は、社会の中で居場所を失っている人々がいることを改めて浮き彫りにした。宗教は孤独な人にこそ必要なものではあるが、手を差し伸べることも難しくなっている。

「孤独な人にこそ必要なもの」
 できることなら、そうであり、その人に適切に、適時に寄り添って欲しい。
 そう思うのですが、宗教は、自ら能動的な人にしか対象としてはなかなか認識できない。
 宗教が、果たして自ら、そうした人びとに手を差し伸べ、望ましくあることができるか。

人と人をつなぐ場でもある儀式や祭礼も制限された。ともに祈ることもできず、葬儀すらままならない。大切な人の死を受け入れることもできぬまま別れなくてはならない人も多かった。読経や葬儀などをリモートで行う動きもあるが、実際に集まることができないというのは、宗教の根幹に関わる事態だ。

奇しくも、宗教を通じての行動や活動の形式性について強調することになってしまっていることが気になります。

利他と宗教との関わり:横の支え合い、欠落したものを補う人間の営みに宗教は必要か


「利他の意識が社会を変える」
こんな見出しのもとで島薗氏は言います。

かつての日本では、地域や血縁、そして宗教というがっちりした関係性や組織が人とのつながりを支えてきた。しかし、生き方が多様化、複雑化する中で敬遠され、薄まっている。コロナはそこに追い打ちをかけた。
しかし、決してつながりが不要になったわけではないだろう。宗教が長い歴史の中で育んできたものを、人々は違う形で求めているのではないか。宗教という組織や団体にとらわれない一般の人たちによる「横の支え合い」とでもいうべきものだ。
私には経済を中心とした社会の中で、欠落したものを人間が補おうとしているように映る。例えば、困窮する子どもたちのための食堂やホームレスを支援するNPO法人など、誰かが誰かをケアしようという動きが生まれている。

ここに描かれている人の思いや活動・行動は、決して宗教に根ざしたものとは限らないとしている。
それは、元来、信じるか信じないかは別にして、宗教を意識したうえで、それに代わる思考・行動様式に至ったわけではないでしょう。

グリーフケアと宗教

人々の話を聞き、痛みに寄り添うグリーフケアの分野では、ウェブを利用した集いが定期的に開かれている。10~20代の若者を対象とした集いもある。身近な人の死、失職、失恋など、様々な喪失により生まれた感情や思いを表現し、互いに耳を傾ける、そしてみんなでアイデアを出し合う。
同じ空間で語らうことはできなくても、「場」を共有することには大きな意味がある。それはオンライン上であっても同じだ。宗教者によらないケアし、ケアされるという新たな共助の形は、宗教がこれまで担ってきた部分を代わりに担うものでもある

やはりここでも宗教ではないもの、宗教に代わるコトとしての人の思いと行動を示すものです。
宗教者は「宗教者が担ってきた部分の代わりを担うもの」とするのかもしれませんが、人々が示す共助や横の支え合いは、信仰心の厚い人以外にも、大勢いることでしょう。
そして言うまでもなく、グリーフケアは、宗教以外の心理学、精神医学における重要な課題としても認識されています。

変わりつつあるZ世代の意識と宗教者の役割

Z世代など10~20代の若い世代は格差などの社会問題に敏感だ。寄付など利他の意識も高いようにみえる。宗教に関心がないという人にも、利他の思いが根付きつつあることは社会を大きく変える可能性がある。
コロナ禍が終息を迎えたとしても、苦しみを抱える人は今よりも増えている可能性はある。宗教者は、難しい教えを説くのではなく、悲嘆に暮れる人々と向き合い、じかに現場に立ってケアの実際を学ぶ必要があるそれが現代社会では宗教が持つ本来の意義に近づくことでもあるのではないか

コロナ禍における思想・宗教を考えるテーマとしては、どうしてもここまでのような視点での主張になるのはやむを得ないかもしれません。
それよりも、数多種類のある宗教を、一つに「宗教」として論じること自体無理があるわけで、論述を依頼された宗教学者として、難題を突きつけられ、引き受けてしまったと思ってしまいます。

しかし、宗教学者としてではなく、筆者は、宗教学者としてそうした多種多様な「宗教」を一つの「宗教」として論じることをどう考えるのでしょうか。

宗教の排他性対利他性、独善性対利己性

宗教には排他的な面があることは否定できず、今も一部の過激な集団が信仰の名の下にテロを起こしている。教義によっては束縛が多いことも敬遠される理由だろう。
しかし、歴史的に見れば、権力者や聖職者だけではなく、広く庶民に門戸を開き、多くのいのちを支えてきたことも事実だ。
宗教は、時代を超え、繰り返し再発見されるものを蓄えている。横の支え合いとともに、宗教が培ってきた精神はこれからも必要になるだろう。

「宗教が培ってきた精神」
宗教という一語に果たしてすべての宗教を包含してよいものかどうか。
宗教が、個々人の内なる心に「利他性」を育みつつ、一方、それが持つ「独善性」が、反動で「利己性」に向かわせている側面があるというとお叱りを受けるでしょうか。
やはり、個々の宗教の違いに着目せざるをえません。

無宗教主義者、無神論者のモノローグ

                                                   宗教および宗教論について懐疑的に見るメモ書きになりましたが、宗教が人々の生活の中にしっかりと根ざしている国や地域やグループが存在すること、それがそれぞれの社会の維持・発展に寄与してきたことは価値あることと考えています。
ただコロナ禍云々に拘わらず、これからの歴史、未来にどう影響を与えることができるか、従来とは異なる望ましい社会の形成・創造に貢献できるか。
この問いに、明確な、好ましい応えを導き出してくれるかどうか、期待を持つことは困難と考えます。

では宗教に代わるなにかがあるか。
異なる宗教間で共有できるなにか。
特定な思想がそれを可能にするのか。

どうやら国を超えてのその理想追及と実現は期待できず、個々の国や地域においてさえも、格差や分断の継続あるいは拡大状況を考慮すると、困難と考えざるをえないのではと少々悲観的です。
しかし、幸か不幸か、仏教も神道もキリスト教も、暮らしの中にイベントとして日常化してしまう、ある意味無分別な、ある意味柔軟な日本および日本人ならば。
支持政党なしの人々が多数を占めていることと関連性があるか否かは別として、無宗教かつ無神論者も多く、そして心情・気質などの特性を持つことで、宗教に依拠しない精神の持ちようが、まず国内に限定すれば、絶対多数を形成できなくても共通の価値観や行動規範を形成できるのではないか。

そこに明日、未来を託して、議論し、検討考察し、少しずつでも同じ思いを共通化・共有化できないか。
その淡い期待を具体化し、支援する基盤、あるいは力。
実はそれが政治・行政と考えるのです。
政治・行政の役割は、苦境にある人を救済するための経済的・物質的な支援のための法律と組織機構を整備し、機能させること。
それなしに、心に寄り添い、生きる力を生み出すためのサポートやケアは、宗教という精神性の限界の前には無力でしょうし、NPO法人や地域や善意の共同体を持ってしても、限界があると思うのです。

ただこうした思いも、ある意味観念的。
この観念論を少しでも現実論に近づけるのは、やはり宗教ではないと思いますし、現実社会で起きている政治行政と地域社会や社会的組織活動、マスコミ・マスメディア活動、民間企業活動などを注視し、問題の指摘と共感・賛同を得ることができる提案・提起を継続することにあると考えています。

しかし、蛇足ですが、宗教学者の使命・役割とはどのようなものなのでしょうか。


少しずつ、よくなる社会に・・・

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